複葉機、KANO、あるいは第九
 

 月末の食事時、NHK-TVは98年前のこの日にイタリヤの飛行機野郎がローマから109日かけて日本に到着したと報道し、複葉機を映し出した。

 満92歳で死んだ今は亡き母が「二階建て」と呼んでいた飛行機がある。四国は徳島の小山に先生に引率されて登り、見あげた飛行機だが、手を振る操縦士の顔が見えたという。

 次いで、6日の新聞記事。台湾旅行で嘉義農林(KANO)野球部の足跡も訪ねた私にとって、ありがた記事だった。この一面記事は「台湾パワー準V(今の夏の甲子園高校野球に当たるで)刻む」との見出しで、強烈なメッセージを含んでいた。

 当時、甲子園には、台湾だけでなく朝鮮や満州、あるいは樺太からの遠征チームも集っていたようだが、私はそのいずれもがKANOと同じく混成チームだと思っていた。だが、違ったからだ。この報道によれば、朝鮮や満州のチームは在留邦人の子弟だけで編成されていたようだ。「なぜだ?!?」との想いが心に沸き上がった。なぜKANOだけが混成チームであったのか。

 KANOは、人口比で言えば劣勢の先住少数民族が多数を占める混成チームであった。それは当たり前のこと(優秀な選手が選ばれたにすぎない)と思って気にしていなかった私にとっては、仰天の内容だった。当たり前であるべきことが、当たり前ではなかったわけだ。

 私は烏山頭ダムも思い出した。当時、セミハイドリック工法では世界最大級のダムを造ったわけだが、多数の殉職者を出した。その鎮魂碑に記された名簿が、犠牲になった日にち順に記されていたことを知った時に胸をなでおろし、工事責任者の八田與一に喝采を送った思い出だ。

 「だが、待てよ」との思いが沸き上がった。もちろん八田與一も立派だが、八田與一にその想いを現実化させる機運が、当時の台湾には広く厚く、しかも熱くたなびいていたのではないか、と思われ始めたからだ。逆に、朝鮮や満州などでは、その逆の機運が流れていたが故に、混成チームを編成できなかったのではないか。このような疑問が沸き起こり始めた。

 このような想いを抱きながら目を転じると、100年前の6月1日。四国は坂東の捕虜収容所で日本で初めてベートーベンの「第九」が演奏された、と天声人語が取り上げていた。ドイツ人捕虜が「すべての人類は兄弟になる」と謳い上げたわけだ。実は、この歌声を直に聞いた、と亡き母から聴かされていただけに私は感無量にされた。
 

複葉機

鎮魂碑
   

 


 

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