生物学履修が必須

 

 かつて、マッチ箱をヘリポートに見立て、離発着できるほど小さなヘリコプターが売り出されたことがある。私は無性に欲しくなった。

 その記事を雑誌で知ってすぐのことであった。秋の夜のこと。読書中に、チョットした事件が生じた。ペイジを繰ろうとしたペイジの間に、芥子粒ほどの黒くて、光沢がある甲虫が飛び込み、紙面をさまよい始めた。

 「オイ、オイ、危ないよ」と、ペイジに挟まれないように指で追い出そうとした。だが、ヒョイッとその虫は位置を変えた。ヒョイ、ヒョイ、と牛若丸のように3度、4度と身をかわされながら、人差し指の先でその小さな虫を親切に追った。ところがその虫は、身をかわすだけでなく、不都合なところに入り込もうとし始めた。指の先が届きにくいペイジの隙間を入り込み始めた。ついに癇癪玉が爆発。

 パタンと、分厚い本を閉じた。「ざまあみろ」と思ったが、即座に反省。恐る恐る本を開き直したが、圧殺したはずの虫は見当たらなかった。

 その後、あれほど豆ヘリコプターを欲しく思っていたのに、魅力を感じなくなった。豆ヘリコプターだけでなく、ひょっとすればそのころから、私の意識に何か大きな変化が生じ始めていたようだ。それまで憧れていたモノやコトがそれほど魅力的に感じらあれなくなっている。

 少々大げさに言えば美意識や価値観の転換だろう。豆ヘリコプターの話で言えば、どれほど精巧で精密な出来栄えであれ、「たいしたことはない」とか、あのミクロ牛若丸に比べたら「ものの数ではない」と感じるようになった。だからだろう、機械や工場で大量に生み出された代物に手を出すことが極端に減った。「たかが知れている」と思われるようになったからだ。

 その後の、ある高名な科学者と環境問題について語り合う機会に恵まれたときのことだ。「この人ならば」との思いであるテーマを持ち出したが、けんもほろろにいなされてしまった思い出がある。ミクロ牛若丸事件直後のことであったように思う。「人間がこの世に存在しうる意義」を胸を張って主張できる人になりたい、と願っていたのかもしれない。

 それは庭(戦中戦後の一家を、農業で母が支えた土地)での作業を通して体験的に学習し、その可能性に気付かされつつあった。私たち家族は、江戸時代流にいえば「三反百姓」の生活空間で暮らしている。入会権のある山や池の幸などを得ながら畑仕事に精を出せば、ぎりぎり自給自足しうる生活空間で生活している、といってよい。

 実は、ある事情があって、60年ほど昔に、この空間で自給自足生活をしなければならない、と私は覚悟した時期がある。だが、就職がかない、人並みに給与所得で生きていけそうだと思うようになった。だが「初心を忘れず」を常に大事にしてきた。その過程で、一帯で農薬の空中散布があった。酸性雨が降るようになった。もちろん私の無知が理由で絶やした野草もある。要は、いやほど人間の所業のほどを肌身に感じしせられている。

 こうした想いが深まるにしたがって、週末の庭仕事で、ある実験のようなことを始めた。自然をそのまま放置した状態よりも、人類が努力を傾ければ、より多様で多くの動物を永続的に扶養し得るようにできるに違いない、との想いだ。そうした想いで知恵と汗を傾けることで、人間をふくむより豊かな生態系を創出しうるのではないか、と感じ始めていた。

 だからこの想いを、地球ベースに拡大しうるのではないかと考え、この学者は問いかけたくなった。残念ながら、ケンモホロロの反応だった。かいつまんでいえば、自然の可能性、あるいは許容力など「計算できますか」と聞き返されてしまった。「それだけに、それを研究テーマにすべきではありませんか」と私は食いついた。さらにケンモホロロの反応が返って来た。「論文に出来そうにないテーマに、学者は興味を持ちません」だった。

 その後、こうした想いを綴りたくなってサラリーマンを辞め、著作に手を付けた。その後、わけあって大垣市にある特殊な女子短期大学(昼間2交代制で3年間の履修を通して国家資格を取らせる)に招聘された。3部の短期大学は早晩成り立たなくなるので1部の短期大学として立ちゆくように改変する、が私に与えられた使命だった。つまり学長候補として招かれたわけだ。

 ほどなくその最初の試練と自覚したある委員会の一員にされた。招聘した理事長にすれば、名を連ねさせて、ハクをつけさせてやろうとして下さったのだろ。おとなしくして可も不可もなく過ごしておればよかったはずだが、市長が委員長を務めたこの水委員会で、私は無性に意見を申し述べたくなった。

 大垣市は「水都」を自称し、豊かで美しい地下水に恵まれた都市として有名だが、街を流れる川や水路をずいぶん粗末に扱われていた。他の都市と同様に排水路のような位置づけになっていた。水は澄んでいても、水中生物相は実に貧相に見えた。

 委員会ではそれまでの水質検査のありなどが紹介され、BODなど初めて聞く様々な専門用語が飛び交い始めた。だが私は臆面もなく、思うところを述べ始めた。提案された専門家の意見や、それまでのやり方が、私の耳には机上の空論かのように聞こえてならなかったからだ。あるいは、1本の論文にまとめるための実験ではないか、と思われさえしたからだ。らちがあかない。何かが足らない、と思われた。

 そこで、わが家で長年にわたって実施してきた「24時間監視委員制度」の採用を提案した。水質変化に敏感に反応する水生生物の放流案である。わが家では、わが家の一帯に京都市が下水道を敷設するまでは、敷地内で下水を独自処理していた。

 その水路に、私はサワガニやドジョウなどの生き物を棲まわせた。台所などで不用意に薬物などを使わないようにするためだ。やがて母や妻も、庭でウロウロするサワガニを見つけて歓声を上げ、愛でるようになっている。

 そのご大垣市は、夏に小学生を動員し、水生生物を観察・観測する活動を私を使って実施した。青年商工会議所はネイチャーサイエンスキャンプという活動を立ち上げ、夏休みに1週間、子どもたちを山の中で預かるプログラムを立ち上げ、私も講師に加えてもらえた。私が講師になって、台所から不用意に油などを流し去らないようにする調理勉強会や、女性アカデミーという市民勉強プログラムも開催させてもらえた。大垣市は、美しい地下水が自噴する施設を街角に幾つか新設した。

 こうした活動を通して、いつしか自然に対する畏敬の念や、人間も自然の一部であるとの認識が人々の間で固まり、新たな美意識や価値観が芽生えてほしい、と願わずにはおれなかった。

 後年、1995年、この年は野茂がアメリカでトルネード投法で旋風を起こしていた年だが、私は2度のアメリカ取材に出かけ(『「想い」をうる会社』として結実させ)ている。その取材先の大学で、アメリカではすべての大学が、すべての学部で2単位の生物学を必修にした、と聞かされた。国家の方針である、という。なぜか私は、日本は戦略上の遅れをきたしたような不安を抱いた。
 
   

 

 

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