広義の教え子
 

 演奏会前日に、里衣さんに再訪してもらえ、数時間の対話を楽しんだが、恐縮することもあった。彼女は、「幾度かお話を」聞いた立場なので、「私も教え子の一人と見て」もらえているのだろう、と思っていました。「でも違います」「教え子」ではない、と気付かされ、恐縮しあ。「そういえば」と、思い出したことが幾つかある。

 この人は、企業人を主対象にした教育プログラムのプロダクションスタッフのお一人だった。まだバブル崩壊が実感されていない頃、1990年代初期に、素敵な女性が素晴らしいプロダクションを立ち上げた。拙著『人と地球にやさしい企業』にも目を止め、講師陣の1人として私も数えていただけたようで、幾度か勉強会の講師に招かれた。その都度、岩崎さんにお目にかかっていたのだろう。

 事前面接のような面談も東京のどこかであり、緊張したことを思い出した。アイトワにも訪ねてもらえていたかもしれない。このプロダクションの起業家は、やがて日本の企業は「このままでは行き詰まる」と見ておられたことも思い出した。穏やかで、物腰は柔らかだったが聡明で、スタッフは女性だけでいずれも同志、といった紹介を受けた。目を輝かせた人たちだった。

 この起業家は、おそらく余命幾ばくも無いことを承知の上であったのだろう、と訃報に触れた時の印象も思い出した。私には思い当たるフシがあり、人生観と死生観の違いであろう、と思った。当時の企業は「もはや欧米に学ぶものなし」とばかりに鼻息が荒かった。問題は、この浮かれた状態がいつまでも続くかのように考えていたことだが、この人もそこに危惧の念を抱いておられたようだ。当時の業界人にまったく歓迎されない私の話を、一度ならず披露させていただけたのだから。

 その後、その同志のお一人だったこの人・岩崎里衣さんは、私との年賀状の交換を今日まで続けてくださったわけだ。いつしか私は、出会った時の様子を失念し、教え子の一人と数えるようになっていたのだろう。過日の、ゆうに20数年が過ぎ去っての再会は母親同伴だったので、その思い込みを決定的にした。だから岩崎さんも、広義の教え子と解釈し、見過してくださったのだろう。

 教え子な中に、姉妹のごとく仲が良い母をいつも学園祭などに招く麻衣さんという学生がいた。その人とも賀状の交換が続いており、里衣さんと混同したわけだ。これを縁に、娘のように気楽にお訪ねください、となった。なにせ京都でのこの仕事に前泊がついたので、まず母を同行し「親孝行」を思いついた人だ。死生観の持ち主の下で働いた人だからだろうか、話も弾む。

 それはともかく、このたびのトーク&コンサートを網田さんと訪れてヨカッタ。かつてブラスバンドのドラマーであっただけに、その受け止め方に惹きつけられ、良き午後の一時となった。始めから終わりまで、学びと感激の連続だった。オーボエの何たるか、その要のリードの何たるかがよくわかり、オーケストラを訪れる次の機会が楽しみになった。荒川静香のイナバウアーも思い出した。オーボエとピアノのトゥーランドットに魅了された。このペアーの醸し出す雰囲気、それは至高体験の顕在化ではなかったか。そうした雰囲気を醸し出させた里恵さんのリードに乾杯したくなった。

 
 

 

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