2カ月前の佛教大生の整地
 

 佛教大生を迎えるために、スロープ階段の防草土加工をほぼ仕上げておいた。そのほぼ出来上った状態を見て、この整地に最初に手を付けた学生は「Oh!」と声をあげた。この時に私は、半世紀余昔の私の心境をよみがえらせている。

 社会人生活は大阪勤めで始まったが、わけあって独身寮に住まわせてもらうことになった。そのようなわけで、社会人2年生の折に終の棲家と見定めた小さな家をこしらえたが、週末にしか帰宅できなかった。その頃の思い出だ。

 週末の自由時間と自由になる所得のほぼすべてつぎ込み、2〜3の例外を除き、私はこの庭づくりに精を出し続けていた。ある日曜日、ある土手を削りかけた状態で大阪の独身寮に戻った。そして翌朝から土曜日の昼まで勤務し、京都の自宅に帰ってみて驚かされた。

 その土手を削り取る作業がほぼ仕上がっていた。病弱だった父が、小さな鍬と、竹のイシミを用いて、こつこつと5日にわたって削ってあった。週末に私が仕上げようと思っていた作業がほぼ完成していたわけだ。その時に私は、心の内で「Oh!」と声をあげた。

 何とかして、アイトワに来てくれる学生に良き人生を歩んでもらいたい。多くの学生は給与所得者になるのだろうが、「古代の奴隷や中世の農奴よりも惨めな賃金労働者」にはなってもらいたくない。ならなくて済む人になってもらいたい。そのために、今の私には何ができるのか。何をすべきか。

 その第一は、骨身を惜しまずに働く癖を身に着けることだろう。むしろ、解放される時、と思える人になった欲しい。逆に、不本意な行為に手を覚めざるを得ない立場にもなってほしくない。ぶら下がっていた糸を切られて慌てる人にはなって欲しくない。そのためには、まず、骨身を惜しまずに働く癖を身に着けることが大事だと思う。

 次いで、達成の喜びを覚えることだ。そして、その喜びをより有意義にするために、好ましき目標設定の在り方を模索する癖を身に着けることではないか。

 それを「頭」ではなく、「体」に覚え込ませてもらいたい。もちろん、非力な人や老人の力も学んだり、鼓舞しあい助け合う心も養ったりして欲しい。

 私の場合は、「こうしたい」との意図を明らかにして家を空けおくと、父がコツコツと成し遂げていた。学生の場合は「なぜこのような作業を」と思いながら手を付けた上で去って行く。だが、その後、私がその意義をコツコツと形にしておく。だから、学生には再来時に、「あの作業は」「こうした意義や成果に結びつくことになっていたわけだ」との実感をカラダで受け止めてもらう。

 これがいかほどのことかは分からないが、何かをカラダにしみこませてほしい。
 

スロープ階段の防草土加工をほぼ仕上げておいた

竹のイシミ

 

 


 

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