自作自演のプロパガンダ
 

  森友事件は昨年2月9日の朝日新聞のスクープから始まった。その8日後に、首相は「私や妻が関係していたら云々」と啖呵を切った。この時に私は、「またか」と思った。拉致被害者の救済はわが政権の使命かのごとき発言時と同様に、眉に唾した。

 この折は、首相は佐川氏の国会でのウソの証言に救われた。だが、野党は昭恵夫人の動きなどを糾弾した。これを「悪魔の証明」などと茶化したり、「価格」は「金額」とは異なるといって茶化す人を「適材適所」とかばったりした。そして、野党をいたずらに「国会審議を遅らせる」ヤカラとばかりに非難した。その陰で、国民の財産である公文書から昭恵夫人の名前などが削除されていた。

 加えて、北朝鮮の弾道ミサイル問題を騒ぎたてた。小学生にまでJアラートの避難訓練をさせるなど国民に恐怖感を抱かせながら、自衛隊員が原告の裁判では当該大臣に、迫りくる危機などあり得ないことと証言させていた。2枚舌を使いわけたわけだ。

 要は、こうしたプロパンガンダを駆使して政権は総選挙を強行し、大勝し、戦争ができる国を目指し、共謀罪法を成立させるなど強引な国会運営を推し進めた。と同時に、あらぬ言いがかりをつけて朝日新聞をつぶそうともした。

 その朝日新聞が、この3月2日に、また民主主義の世界ではあってはならない不正をあばくスクープ記事を発したわけだ。その折の政権の態度も不誠実であった。国民の中にも、またぞろ「国会審議を遅らせるイヤガレセ」かのごとき捉え方まで広まり始めた。不正があったと迫るなら朝日新聞が証拠を示せばいいことではないか、と言わんばかりの機運が盛り上がり始めた。

 その機運を『週刊現代』は、3月24日号の広告でとらえたのではないか。「朝日新聞と安倍政権 どちらかが死ぬ」と12日に打った。私も「さもありなん」と思わせられた。朝日新聞は、どこまで確かな証拠を握ってのことなのか、と私も思わせられ始めていた。

 だが翌朝、官庁の中の官庁と言われる財務省が、文書改ざんをしていたことが文字となって白日の下にさらされた。かくして、主権者としての日本国民は世界中の注目を浴びることになった。主権者としての威厳や品性などはいかほどか、と試される立場にたたされてしまった。

 「私や妻が関係していたら云々」と首相が啖呵を切った記憶が新鮮な時に、この主権者をあざむいていた政権の事実が顕わになっていたら、強引な解散をして総選挙に打って出ていたか。打って出たとしても、主権者はあの圧勝を間違いなく許していなかったはずだ。

 今から思えば、昨年2月9日の朝日新聞のスクープ時に、外国人記者たちが(このスクープに)ある賞を与えたが、この判断を私たちはキシンと視ておくべきであった。反省させられる。ジャーナリズの使命は、第一に権力の監視だ。キシンと評価した判断を下していたら、どうなっていたか。

 政権は国民から権限を与えられ、行使している。共謀罪法などを成立させたりするは、その望ましき行使であったのか。国民を欺くために活かしていたことになる。


  

「朝日新聞と安倍政権 どちらかが死ぬ」と12日に打った
 
 

 

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