「逃げ切れる世代」

 

 絵本作家の大成裕子さんの朗読に触れ、「もしも言葉が目に見えたら」「心の形をいかに描けばよいの」と、問いかけられたような気分にされ、かたずを飲んだ。スゴイ人だと思った。なぜか、ディズニーが旋律を形にして見せた(高校代に観た)映画『ファンタジア』を思い出した。

 次いで、「あの時(心臓病での入院時)以来だ」と、思った。心臓病の時は救急病棟に妻の運転で駆けつけており、そのまま緊急入院となった。おかげで、NHKラジオの「深夜便」を知った。それは、6人部屋を与えられたおかげだ。

 6人部屋の1人が物凄いイビキをかき、寝言もいった。カーテン一枚の隣ということもあって睡眠時間が狂った。そこで、妻の差し入れに携帯ラジオを加えてもらった。

 2日目から昼間に寝て、夜はイヤホーンで耳に栓をして、「深夜便」を知った。毎夜のごとく聞き入るようになり、なぜか自分が陸送車の運転をしているかのような気分になり、「ラーメンが食いたいなあ」などと思ったりしながらウキウキして耳を傾けた。

 今回は個室を勧められ、用意万端整えて入院することになった。前回とは異なる期待をして入院したが、常日頃は望めない夜のラジオ番組も期待に入れており、当初から携帯ラジオも持参した。

 その最初のアプローチで、ロッシーニの旋律に触れた。翌未明は、シューマン夫妻とブラームスの間柄を知り、ブラームスに惹かれた。たしか、その後で、「もしも言葉が目に見えたら」と問いかけられたように記憶する。どのように心を形にすればよいのかと、とまどった。すごい人がいるものだ。

 『赤ちゃんが笑う』という作を、大成裕子さんが自ら朗読した。彼女の、「だんだん私はお母さんになってゆく」との下りのあたりで、私はいつものごとくに持論を心の中で叫んだ。

 「未来世代には、美しい空気と、美しい水と、そして美しい土さえ引き継げば充分なンだ」

 そう叫びながら、わが語り口を「堅いなあ」と卑下していると、大成裕子さんの口から次の言葉が飛び出し、イヤホーンから流れて来た。だから、愕然とした。

 「世界はいつだって始まったばかり」と彼女は言葉をつないだのだ。改めて、すごい人がいるものだ、と感じた。そして、もし妻が、一緒にこの下りを聴いていたら、きっと涙ぐんだに違いない、と思った。妻は、何事も言葉にするのがとても苦手な人だから、いつもココロを言い当てられたような気分になると関心を通り越して感激してしまう。それを私はいつも、うらやましいな、と思ってきた。

 その時だった。なぜかフト、「逃げ切れる世代」の一人である、と自覚した当時を思い出した。自分の立ち位置が「逃げ切れる世代」ではないか、と気づかされた頃の思い出だ。

 「知らぬが仏」であればよかった、とも思った当時の心境だ。だが仕事柄、気付かずにはおれない立場に自分を追い込んでいた。だから未来予測が必然の仕事柄を残念に思ったものだ。それはともあれ、気付いてしまった以上は、じっとはしておれない気分だった。

 「未来世代には、美しい空気と、美しい水と、そして美しい土を引き継ぎたい」

 だからその気分は、妻にも結婚する前に伝えている。「未来は、過去の延長線上にはない」と思っていることや、妻が死ぬ頃には、年金や健保のシステムは破綻している、と見ていることも話した。裏返していえば、私の世代は、うまくすれば、それらを期待できる最後の世代になるかもしれない、と見ていたわけだ。なぜかそれが、とてもバツが悪い気分にさせた。だから私は生命保険には入らない、といって覚悟させた。生命保険も他力本願のはかない夢のように思われたからだ。

 もちろん、このような私に愛想をつかせたら、どのようなサインでケリをつけえることができるのか、そのケリのつけ方も決めて、そのサインを取り決め、言葉にした。なぜかそのような過去を振り返った。

 次の日の未明であった、と思う。ペギーさんが幼いころに、父から諭されたという言葉が紹介された。「困っている人と動物がいたら、学校や仕事に遅れてもいいから助けなさい」と教わったらしい。そうと知って、この日も考え事をしてしまった。やがて、とても心が和んだ。

 教員時代の青臭い思い出を振り返り始めていたからだ。「そういえば」と懐かしく思い出したことがある。唐突に未経験の教員の職を引き受けてしまったものだから、ある覚悟を決めた。私の役割を勝手に決めて、実践すればよいだけのこと、心に言い聞かせ、開き直ったような思い出だ。

 実は、断りに行った日のことだが、迎えてくださった理事長が、事情があって、堂々とカッコウが良すぎる持論を展開された。「私たちは、未来からの留学生を受け入れています」。ナルホド。だから、「未来が見えずして、やってはゆけない仕事です」。これもナルホド、だった。

 毎日が真剣勝負のような日々が始まった。つまり「逃げ切れる世代」の罪滅ぼし、のような気分にされていたわけだ、その過去の断片を振り返った。

 その学校では、15分ぐらいの遅刻は容認していた。だが、それも学生に伝えた上で、私は1秒の遅刻も許さない、と宣言した。それは、私には時間の厳守ぐらいしかまともに教えられない、と見ていたからかもしれない。もちろん、例外条件も付けた。遅刻を取り消す条件だが、それは私が決める。その私から次々と飛び出す新判断を、飛び出すたびに「キミたちに審査してほしい」と訴えかけた。つまり、私をクビにする権利(自活のすすめ32)を学生に与え、判断をゆだねた。

 ある日、ペギーさんのような学生に出喰わした。あたふたと駈けつけた自転車通学の学生が、予期せぬ理由を語った。自動車にはねられたネコに出くわし、それが遅刻の原因になった、と彼女は息せき切りながら語った。「父が(かつて)したように、私もネコを抱え上げ、道路の外に」移動させた。「そのあと急いだのだが」遅刻した。彼女の息は、まだ荒かった。

 即座に私は「それは良いことをした」と応えた。当然遅刻を取り消した。他の学生の、本件に関する賛否のほどが気になったが、安堵の周波が教室中に広がったことが私にも分かった。

 ある学生は、「映画を見ていて、遅れた」と言ったことがある。その映画は、当時話題になっていた龍村の『ガイアシンフォニー』だった。地球の環境問題を熱っぽく語る私の弱味を「ついてきたナ」と思った。だから即座に「その知恵は、今回に限り認める。だが、似たことを誰がしても、2度と認めはしない」と言い切った。この判断に、ただの一人も不満を漏らさなかったし、当の本人もバツが悪そうだった。

 私には、はじめから決まっている答えを教えたり、誰にでも分かりそうな判断を下して見せたりするだけでは物足りない。いわんや、価値観の押しつけも控えたかった。

 刻々と世の中は変る。そのつどに、是非の判断や、選択が迫られるのが人生だ。「どちらとも言えない」と言ったような答えを繰り返さなくても良い人になってほしい。その是非や選択を自分の頭で考え、未来を自分の手で切り開いてほしい。その役に立ちそうな事例を探し、私なりの反応を示し、他山の石にしてもらいたく思っていた。

 こうしたことを、毎年100人ほどの学科の学生を相手に7年間も続けた。その時に、学長の白羽の矢が私にたった。私には母の危篤と言う辛い事が生じていた。だが、学校も存続上でとても辛い立場に追い込まれていた。だから私は、母の許しを得て、母の危篤は学校に伏せ、受け入れた。

 そうと決まった時に、全教員に集まってもらい、私の思うところを述べた。「未来は、現在の延長線上にはない」と私は見ているだけに、「それぞれの専門を通して、人間を教えてほしい」と頼んだ。時代は変りそうだし、時代がかわれば、戦争末期の教育と同様のようなことになりかねない。むしろ、どのような時代を迎えようとも、たくましく生きる勇気を授けようではないか、と訴えた。

 心配することはない、どのような親であれ、人間を演じており、子どもは反面教師にでもして学んでくれるはずだ。私は父から、囲碁に熱中して妻を悲しませる姿を学んだ。こうした訴えも、私の目には「逃げ切れる世代」の責務であるかのように映っていた。


 
   

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