悲しさ

 

 「これしきの石」と思ったが、持ち上げられず、愕然としながら自動停止した日の思い出だ。自動停止とは、加齢に配慮した自制だ。ここでギックリ腰になったり、寝込む怪我をしたりすれば、「ガクッ」と体力を落とさせかねない、との自制だ。もちろん、気力をなえさせかねないことが肝心、と考えている。

 そこで、「これも佛教大生の課題の1つに」と残すことにしたわけだ。このたび院生の話が入り、佛教大生には別途の課題を用意することにした。

 「それにしても」と思った。「まんざらではなかった」とのたわいのない自画自賛と言い直せる。こうした自画自賛を励みにして、これまで私は生きてきたようなところがある。なぜなら、若かりし頃の私には「私のような子どもが出来たら大変だ」との心配がつきまとっていた。それが「子どもをもうけたい」という気持ちにさせなかった。

 妻は逆に、私の期待通りの子どもでなかったら、「ぜんぶ私のせいにされそう」と心配していた。だから2人は、ヒト(他人)サマの子どもがとてもかわいく見えるし、その健全な未来をとても大事にしてきた。そうした気持ちが人間にもあるようだ。

 それはともかく、石の話だ。これまで私は、わが家の、自力で操作できる範囲の石になったが、ふんだんに自ら石を活かしてきた。それがヨカッタ。

 往年時は「この石が持てたンだ」と実感させてくれる。裏返していえば、今の己の非力をいやがうえにも自覚させる。

 この度の例で言えば、あの数分は「何だったンだ」と反省した。前もって、一輪車を用意しておいたことだ。衝撃よけの板を(学生が、重い石を乱暴に乗せた場合に備えて)載せた一輪車を、動かしてもらう石のそばに用意したが、それに要した数分のことだ。だが学生は「ヒョイッ」と持ち上げ、運ぼうとした。

 そこで過去を振り返り、私は「この倍もありそうな石」を、素手で持ち運んでいたものだ、と思い出した。そしてそれらの石をこの目で確かめ直した。そして、非力になったわが身を自覚し、昨今のバ-ター取引の有効性を追認し、若者たちに感激した。


 

 

 

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