なぜか

 

 敗戦後何年かした頃に、空気銃をもって一帯をさまよう人がいた。私はまだ小学生で、中村小夜子先生の担任は4年生だったから、3学年までだったと思う。

 中村先生は、生涯で4人目の(栄生さん、佛母堂の伯母、そして美雪ちゃんに次ぐ)恩人だ。先生と巡り合った後であったら、小鳥を食べた思い出は何らかのかたちで先生とリンクして記憶しているはずだから、3学年までだったと思う。

 小鳥を5羽、私はこれまでに喰った。その最初がヒヨだった。ある日、空気銃をもってさまよう男について回ることを許された。前後のことは覚えないが、別れ際に腰にぶら下げた色とりどりの小鳥の中から灰色の1羽をくれた。図体が一番大きい小鳥だったのでとても嬉しかった。その後の記憶は、母がヒチリンで焼いたこと。とてもマズイ、と思ったこと。そして、何でも弟と半分こさせた母が、この時はなぜか私が1人で食べることを許したこと、この3点だけを覚えている。後年、その小鳥がヒヨであったと知った。

 2羽目は、中学生の頃のモズだった。父は既に8年間の闘病(結核と糖尿の併発)から復帰しており、隔離されていた2階を空けていた。その6畳の間で私はよく(当時凝っていた)模型機関車遊びをしたが、そのモズが開け放っていた窓越しに視界に入った。

 10mほど先に引き込み線用の小ぶりの電柱が立っていたが、そのてっぺんにモズがとまった。私は(イシヤリと呼んでいた)ゴム鉄砲を持っていたが、弾にする小石の持ち合わせがなかった。そこで、模型機関車の小さな真鍮の部品を弾に見たて、狙いを定めて射た。弾は2回ほど弧を描いて飛んだが、見事的中。ポトリ、とモズが落ちた。

 手の中でオズはまだ温かかった。毛を抜き、自らヒチリンで焼き、食った。焦がさないように焼き上げたこと、そして不味い、と思ったことを記憶している。

 3度目は、伏見稲荷だった。商社時代に、取引先の夫妻に誘われて日曜日に訪ねたが、焼き鳥屋が「よくもまあ」と思うほど軒を連ねており、その1軒で串の垂れ焼きを食べた。小さなスズメだったが頭が少し硬い、と思ったことしか記憶はない。

 最後は短大時代だ。今もつき合いが続く大垣時代の友人に、ある日ジビエ料理に誘われた。店の主人が射止めたクマとシカ肉が主だったが、禁猟種と聴かされた小鳥、たしかツグミの照り焼きも喰った。旨かったが、これが最後で、その後は食べていない。

 母が大の男が美食を目的として動ずることを好まなかったことも関係がありそうだが、その後、それ以上に嫌な思いをしたからだ。母は、大事に思い合っている人が、その思いの交換として振る舞い、振る舞われることを美食とした。

 それ以上に嫌な思いとは、ミッテラン元仏大統領の死に際の食い意地だった。同氏は死ぬ1週間前の大晦日に、生ガキ30個以上、フォアグラや去勢鶏に加え、幻の味と言われる小鳥(狩猟も販売も禁じられている)ズアオホオジロ2羽を平らげており、会食者は死相をたたえた同氏の食欲に言葉を失ったという。この鳥と知って食したことがバレた場合は、最高で当時6万フラン(133万円)の罰金、禁固6カ月の刑だった。

 

 

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