少年時代の原点の1つ

 

 この度、この映画を見直してみて、少年時代の私が、なぜあのようにココロを打たれたのか、その訳を追認したような気分になった。オオカミに育てられた少年モーグリが主人公だが、私は子どもながらに自然の摂理と文明の衝突を読み取っていたようだ。そして、自然の摂理を尊ぶ野生動物に肩入れし始めたのだろう。この映画では火を「赤い花」と呼び、人間が操る火の恐ろしさに気付かせる。自然の摂理を尊ぶ生きものに、牙では立ち向かえない恐怖を抱かせる。

 私はまだ日本が物質的に貧しい時代にこの物語に出会っている。今の子ども以上に「赤い花」に反応したようだ。今で言えば「赤い花」を原子力のように感じたのだろう。

 モーグリは、オオカミの子として生きようとする自覚に反し、「赤い花」にうつつを抜かす人たちから種火を盗み、暴れまわる。それは、今の私の目には、原発で利得グループを編成してきた人たちへの怒りだけでなく、恐怖心やその愚かさへの憐れみの感情まで爆発させた姿と見た。つまり、利得という極めて相対的な人為の価値に翻弄され、肝心の生きとし生けるものへの冒とくに対する奮闘だ。

 私は、その利得グループが推し進める運動に対して、かねてから怒りや恐怖だけでなく、愚かさに憐れみさえ感じてきた。たとえば「野焼きを禁止」の普遍化に組みしたり、オール電化の推進に躍起になったりして、原発に依存させ、ライフラインを支配し、人間の真の自立力を奪い取るやり方への怒りや恐怖だ。モーグリの大奮闘を眺めながら、涙もろくなったものだと恥ずかしかった。妻は大きなクマが可愛かったと、感極まっていた。

 総入れ替えの映画のよさ、つまり観客が館内灯が明るくなるまで立たない良さにも気付かされた。余韻だ。私は朝方の、妻の水道栓(の閉め忘れにソフトに迫れたこと)を思い出し、ケンカにならす、ヨカッタと思うゆとりを楽しんだ。もしケンカになっていたら、と振り返り、砂をかむような「咬みあわない話し」を連想し、ゾッとした。きっと妻には、いつものごとく、なぜかくも烈火のごとく怒るのか、分かってはもらえなかっただろう。

 売り言葉だ買い言葉は、いつも水と文明の問題まで連想し、文明とテロの問題にまで想いを広げてしまいかねなず、ドンドン溝が広がってしまう。ついには、父が私に叫んだように「いっそのこと死んでしまえ」と怒鳴りたくなってしまう。

 問題は、私たち夫婦の間には、「お父さんは鬼のような人ですね」と慰めた母のような存在がない。私は母の、こうした寝ぼけたような慰めの言葉に幾度救われたことだろうか。父の怒りを、真剣に理解しなくてはならない、とそのつど思わせられている。

 このようなことを思いめぐらせながら帰路についた。

 突き詰めれば、テロに狙われる方に共通する点をキチンと掘り下げ、自爆テロのごとき犠牲まで生み出さないですませる人類になりたい、それが文明人だ、といいたい。


 

 


 


 

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