記念出版物

 

 若い人たちが人生の道筋を誤らないように、との思いを込めた動きや書籍の誕生が望まれる今日この頃だ。この度、「その一書に違いない」「その典型例に相違ない」と思われる一書が届けられた。嬉しい。とても爽やかな気分だ。

 実は、かねてから私は、次代は「人間とは?」を問うに違いない、と考えて来た。人間の定義だ。なぜか、この送られて来た一書の表紙を眺めているうちに、このかねてから気になっていた人間の定義について、参考にさせてもらえそうだ、と期待した。

 民勢統計的な側面ではなく、人間は、チンパンジーやゴリラなど他の霊長類から枝分かれしてヒトになったわけだが、次代はヒトの根源的な像を問題にするであろう、と思っている。いわばヒトの本質が問われそうに思っている。

 工業文明はそのヒトの本質を歪め、かくなるン人間社会を造らせた、と言ってよいだろう。自然汚染を進め、資源を枯渇させながら、人口爆発を促し、紛争の絶えない社会を作り出し、気候や気象変動まで促してきた。これが本来の人間像だろうか。私はヒトが工業文明によって歪められた姿であろうと見通り、工業文明の破綻によって、それが大問題にされるであろう、と睨んでいる。

 もちろん、この一書に恵まれた事実だけで、「人間の定義」の問題を持ち出す気分になったわけではない。その前に、予告編のごとき1本の電話があったからだ。1週間ほど前の母の17回忌と過日の2泊3日の旅で訪れた聖ザビエル教会がキッカケで、姉と電話で1時間も語り合うことになったが、それが大いに関係している。

 その電話は、「ここらで過日の2泊3日の旅の後編を」と、思っていた矢先にあった。明治村で最後に訪ねたのは聖ザビエル教会だが、とても神妙な気分にされた。京都の河原町三条から移築された聖堂だが、実は70年近く前に姉はここで洗礼を受け、クリスチャンになっていたからだ。

 この、私より10歳年上の姉が、過日3カ月余にわたって老人介護施設に体験入居した、と切り出した。そして「個室で過ごしたの。だけど到底」と、他の人との同居は耐えられそうにない、と語り始めた。「気ままが始まった」のか、と思ったが、そうではなそうだ、とすぐに分かった。エレベーターでの事例を聞き、そう考え始めた。

 その老人介護施設には認知症もしくはそれに近い人が集まっていたようだ。エレベーターは車椅子が4台入るそうだが、そうした人は順番を待てず、我先を競うらしい。食事時になると、3か月の間、その争いを繰り返したという。こうした話をキッカケに、私はさまざまな質問もした。そうこうしているうちに「人間とは?」と考え始めた。

 そのようなわけで、2泊3日の旅の後編は後日に回し、久方ぶりに「人間の定義」について考え始め、その時に湧き上がった想いを記しておきたくなった。その気分が、このたびの一書の帯にあった「『消された歴史』と向き合う」とのキャッチコピーに掻き立てられたわけだ。

 チンパンジーやゴリラなど他の霊長類にも、認知症があるのだろうか、とフト思った。在るに違いない。哺乳類の段階で留まった存在の金太でさえ、認知症の傾向があらわになり始めている。チンパンジーやゴリラなどの霊長類にもあって当然だろう。問題は、彼らが認知症になれば、どのような行動をとるのか、ということだ。

 金太の場合は、「ガタッ」と運動能力が落ち、認知症状が露わになるに従って、妻は「可愛くてたまらなくなった」という。若かりし頃の金太は、ふてぶてしくて、可愛げがなかった。ハッピーと違い、妻が小屋の側に行っても、気が向かなければ出てこず、ギョロッと目だけ動かした。風呂も嫌いで、思うようには洗わせなかった。

 それが、大違いになった。常にすり寄ってくるようになった。その金太を、「心細くなったのヨ」などと妻は推測し、やけに可愛がるようになった。この変化の原因は何か。金太の中にあった何が露わになったのか。あのふてぶてしさはどこに消えたのか。

 雨が降り出せば、あるいは夜になれば、妻は急いで駆けつけ、抱きかかえて風除室に運ぶ。毛を濡らさせた、と言っては行水させたり、ブラッシングしたりしている。

 姉が体験入居した老人介護施設では、加齢と認知症現象が金太とは逆に、あさましい姿を露わにさせていたようだ。それはどうしてか。この差異は何処に原因があるのか。

 昨今、わが国の人間社会では日常の大切さが見過ごされがちになっている。逆に、非日常や非日常化がもてはやされるようになっている、と思う。非日常の体験装置であるDLやUSJが人気を博している。食事でさえ、家族がつつましやかに集い、家族が手作りした同じ食べ物を、そろって食べる習慣がおろそかにされている。逆に、個食や孤食が増えたり、工場で造られたレトルト食品をファミレスチエーンでとったりすることが増えている。

 その是非善悪は別にして、そうした風潮を正当化し、煽る書籍も増えている。「家族などは、煩わしい存在ダ」と言わんばかりの一書や、「1日中、ずっと料理のこと考えていませんか」と呼びかけ、『考えない台所』を、などと訴える書籍の出版が目立ちもする。もちろんテレビも、同様だ。

 こうした働きかけやささやきかけは、非日常志向にある人々のココロの隙間に入り込み易く、ある種の油断を誘い勝ちになるのではないか、と私は心配している。たとえば、1970年ごろに、70歳(確か)になれば医療費は無料、との動きがあり、働き盛りだった私は気を緩めかけたことがある。もちろん、油断したままの人もいたことだろう。

 かつて成人病が生活習慣病になったがごとく、認知症の多くがいずれ生活習慣病であったと見られるようになりそうな予感がして、心配でならない。

 贈られた一書を読みもせずに、勝手な意見をふり回すことになったが、それは多分に、現政権が推し進める不愉快な政策だけでなく、不気味な隠蔽や捏造などにおののかされていたことによる過剰反応だろう。だが、なぜかココロを引き締ったような気分になれた。


 


一書が届けられた

クリスチャンの姉はここで洗礼を受けている
 


 


 

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