狩猟民

 

 この日、この写真に心を惹かれた。本文を読んで、さらに魅了された。

 ペルー南部に広がるマヌー国立公園を守って来た先住民マチゲンガ族の娘だが、頭の上にペットのセマダラタマリンを載せている、と『The Asahi Shimbun GROVE』は紹介した。この民は、サルも狩猟するというから、この娘は、大人たちが狩った親ザルにくっついていた子ザルをペットにしたのかもしれない、と勝手に想像した。

 当週の週報で「農耕民や狩猟民」に「敬虔なる」といった形容詞を添えたくなったわけだが、その直後に「それはどうしてか」と考えた。そしてすぐに、きっとそれは、この日の朝一番に、この少女の写真に触れていたからだろう、と思った。

 私たち工業文明人は、犬や猫を商品化し、ペットにして愛玩するが、売れ残った子犬や子猫の行く末をあまり知らない。視るに堪えない立場に追いやらせている。

 もちろん人間同士でも、愛玩の対象にされる子どももいるが、難民の子どもたちの中には海の藻屑となったり、餓死したりしている。

 私たち人間は、動物性たんぱく質を摂取したくなるが、いまやマチゲンガ族のように自ら狩猟をして、自ら調理し、同化する人は少ない。私も、今では、食べるまでの課程は他人任せにしている。狩猟する人や、調理する人はいるが、換金が目的で、自らの同化のためでなないことが多い。多くの人は、他の人に殺させ、その一部を買い求めて食べ、残る多くをゴミにさせている。魚の刺身では、7割ほどをゴミにさせている。私もその一員になっており、狩猟民のように自ら狩り、隅から隅まで活かしてはいない。

 今や私たちは、消費者と総称される立場だと自覚しながら、消費者としての真の自覚に欠けているわけだ。無機物を取り込み有機物になる「生産者」としての植物と、有機物を取り込み、無機物に分解し「還元者」の立場を占めるバクテリアは、相互依存し、自立関係を保っている。だが、私たち動物は、有機物を食べ、有機物を輩出するいわば寄生虫のごとき存在だ。とりわけ工業社会の私たち人間は、地球にとっても厄介な(地下資源まで喰い尽くす)寄生虫そのものだが、その自覚に欠けている。

 実は、そうと気付かされた時に、半世紀も前から穿ってきたゴミ穴に「哲学の穴」との愛称を与え、妻にバカにされた。このたび、「農耕民や狩猟民」を取り上げるについて、なにげなく「敬虔なる」との形容詞を与えたが、その気持ちが、次第に自明になり、とても安らかな気分になれた。

 つまり、心のどこかで、「工業社会を『当たり前』と思うココロ」や「当分は工業社会が続くだろうと高をくくリがちになるココロ」を警戒したわけだ。
 

この写真に心を惹かれた

 

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