もう1つの決め手

 

 かつて「ウルトラミニミニヘリコプター」が売り出されたことがあった。マッチ箱ほどのヘリコプターの記事に触れた。屋内で操作できるラジコンだった。お金を貯めて手に入れ、あの棚の一角を基地にして、この辞書をヘリポートに見たてて、屋内で遊ぶ夢を膨らませた。

 たしか、その日の夜分だった、と思う。読書中の私が開いていた本の上に、電光に吊られたのか小さな甲虫がやって来た。0,5mmもない黒い虫で、目も脚も判別できない。

 頁をくる段になって困った。押しつぶしたくなかった。息で吹いてもしがみついている。ソッと指先で払おうとすると、ヒョイっと逃げる。さらにサッと逃げる。まるで頁の上での牛若丸だ。ついに躍起になり、挙句の果ては、腹が立ち、頁を伏せた、ように思う。

 閉じた頁を恐る恐る開いたが、芥子粒のような黒い虫は見えなかった、はずだ。そのごすっかり忘れてしまっており、今の今まで仮借の念に苛まれていない。

 その時に考えたことがある。「ウルトラミニミニヘリコプター」に憧れた私と、芥子粒のごとき虫に躍起になった私のことだ。その違いに思いを馳せた。そして、考えた。この時も人生の分かれ目の1つであったように思う。私の思考は完全に変った。

 例えて言えば、1964年のオリンピック。「頭、右」に感動した。今の北朝鮮の金親分(正式な職責を失念)かのごとき好み(あの軍事パレード好み)に同調するようなココロであったのかもしれない。それがすっかり変わった。そして、分かった。


 「ウルトラミニミニヘリコプター」や「頭、右」の共通点と「芥子粒のような黒い虫」とは何が違うのか。その違いだ。どちらに「独自の意志」を見出し、尊重するか。どちらに「個性や個別性」を見出し、尊重するか。

 その目で、今の日本を見るとすこぶる危険だ。憲法13条の「個人」を「人」に、などはその典型だ。

 これを危ない、と思っていなかった時代の私には、嫌な思い出がいっぱいある。模型の軍艦や軍用機に憧れていた。ドイツのホフブロイハスでは警官につまみ出されたこともある。「今度は、イタリヤを抜いてヤロウ」などと叫び、立ち上がって騒いだからだ。その後で、「ここは、ヒトラーが旗揚げしたビヤガーデンだ」と知らされている。

 この意識の転換も、私は「運も実力のうち」にするように思う。


 
 

 

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