日本のこれから
 

 私はなんとかのびのびと生きるコツを追及している。その一環として文明の誘いに乗らないことだと心得ている。キュウキュウさせられていた頃は、いつも文明に憧れていた。その後人は3分され、その憧れを餌にする少数の人と、その憧れに食らい付く大勢の人、そしてわれ関せずの目立たない人に分かれていった。さて「どれを選ぶか」と悩んだものだ。

 私は3年ほど前から、衣の面でリクチュールプロジェクトに関わっている。これも次代への備えのつもりだ。同様に、食と住の面でも何らかのプロジェクトが必要だ、と思いはじめた。

 それは量的な課題と言うよりも、質的な課題だろう、と思っている。

 明治初期までの日本人は、世界から一目置かれていた。貧しさを恥としない民族、と眩しい目で見られていた。それは文化の賜物であった、と思う。その後、とりわけ高度経済成長期以降は、私たちはその文化をないがしろにしており、エコノミックアニマルと呼ばれるまでになっている。「金の切れ目が縁の切れ目」のような国になった。

 衣食住の面での次代への備など、生活防衛的であるだけではラチがあかない、と思う。なにせ国家が顰蹙を買いはじめているのだから。ヘイトスピーチ問題しかり、従軍慰安婦問題しかり、調査捕鯨問題しかり、さまざまな面で、かつての武士道の国、サムライと侍の妻のメージは地に落ちている。なぜそうなったのか。どこにシクジリがあったのか。

 そういえば、茶道にしろ、華道にしろ、流派が別れ、小競り合いの度合いが増したかのように見受けられる。それは、根本を見失っている査証だろう。それではダメダ、と茶杓を削りながら考え始めた。「形」の違いではなく、共通する精神を見定めたい、と思った。いわば、形をつくる「型」だ。要は根本をキチンとわきまえることが肝心だろう、と考えた。根本は、文化の差を超えて通用する。「なんてことはない」と気づかされた。「型」を形づける「方」の追求だ。

 
 

 

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