とんでもない方向に飛び火

 

 夫婦ゲンカのキッカケはたわいのない言葉使いに過ぎません。妻はツタンカーメンのエンドウマメの方は「種を残しておきました」と言いましたが、現実は異なっていました。スナップエンドウの方は採り尽くされていましたが、ツタンカーメンの方はずいぶん残っていました。

 実際に、種を獲るために残したのであれば、選りすぐりの莢(さや)が10もあれば十分です。ところが、不適な莢(交配している、あるいは実の入りが悪い)まで含めて、その何倍もが残っていたのです。ですから妻に、「残しておきました」ではなく、「採り忘れが沢山ありそうです」と言っておくべきであった、と注意したのです。そこで夫婦ゲンカになりました。

 私は、新たな家族を迎え入れており、コミュニケーションのありようが重要度を増していますから、そこをクローズアップしたかったのに、あらぬ不幸に向かいました。それは多分に「先週の問題」が尾を引いていたからだと思います。

 私は、妻に対して「現実を正確に表現してほしい」「言い訳はするな」「自分を甘やかしてはいけない」。そうしたコミュニケーションを許しておくと、アイトワの文化がグチャグチャになってしまう、夫婦なら、ケンカをしながら根気よく構えておれるが、これからはそうは行かなくなる、と気づいてもらいたかった。ところが妻は、それは妻に対する優しさ加減の問題、とでも狭義に捉えたものですから、ケンかはあらぬ方向に向かったのです。

 先週、妻は市民健診(再診査・精密検査)を受けています。その結果を持って戻ってきた妻に対して、掛けるべき言葉を私が掛け忘れていた、といって突っ掛って来たのです。

 妻にしてみれば、「大丈夫でしたか」とか、せめて「どうだった」とぐらいは聞いてほしかったようです。しかし、私にそのような言葉を期待されては困ります。待ちわびていた私は、「腹が空いた」「何か作ってほしい」、と願ったのです。

 決して私は妻をないがしろにしているわけではありません、むしろ逆です。万一妻に先立たれでもしたら「途方に暮れるどころの騒ぎではない」と分かっています。逆に、15年は長生きしかねない妻の、私が死んだ後のことも心配です。ですから、たわいのない言葉遊びなどにかまっておれない。しかし、妻にすれば、その有無が日々の励みにもなれば、辛さにもなる、と言いたいようで、私の心境には興味を示してもらえなかった。

 それは、かつて(母が他界した後のことですが)の、ある思い出を振り返らせました。

 ある日のことです。母の49日が済み、一段落したころに、ふと思い出したかのように妻が不平を言ったのです。母を見送った時に、私が妻にかけるべき言葉を忘れていた、と言ったような不平でした。それは「苦労をかけたネ」とでもいったような一言でした。

 私にすれば、そのような言葉は軽々しく感じられるし、歯が浮くような気分になるし、そのような一言で済ませられる問題ではないし、もっと正確に言えば、その場限りの女たらしかのような言葉に満足などしてもらいたくない、と思っていますから、はけない言葉です。実は、この時も、「情けないなあ」と思いました。でも、私の言いたいことはすでに文字にしていましたから、相手にせず、聞き流しています。

 その代わりに、ではありませんが、その時に、私が幼子の時の強烈な思い出を妻に語っています。3歳の時の思い出です。帰宅した父が、私が大怪我をしていたことを母から聴かされた時の反応でした。

 私が寝ている部屋に、ドカドカと廊下を踏み鳴らして近づき、「いっそのこと死んでしまえ」と叫びながら襖(?)を開けたのです。そして、私の(ビックリして父を見上げていたことでしょう)姿を見て、安堵したのか、サッと部屋を出て行きました。母は父の後を追って入ってきて、そのまま私の側に座り込み、「お父さんは鬼のような人ね」と慰めてくれたのです。

 この時に私は、父の計り知れない私への愛を感じ取とっていまいた。ですから逆に、母のたわいのなさを、もっと正確に言えば浅はかさのようなものを感じています。

 余談ですが、この他にも、3歳の時の思い出が5つほど(骨格と血管だけのキリン、西宮のヘビ、ごろごろ転がっていたスイカ、3面張り水族館、そして飛行機の墜落が関わった出来事が)ありますが、うち3つ(キリン、スイカ、そして水族館)は父がらみの思い出です。その後は、父は不治といわれた病に倒れており、次の私の幼いころの思い出は5歳の時に西宮から(父を病院に残して)京都へ、母に手を引かれて疎開する道中の出来事まで飛んでいます。

 それはともかく、幼子の頃のこの5つの思い出の中で、最も強烈であったのは、「いっそのこと死んでしまえ」と叫んだ時に感じた父の愛でした。

 言葉自体は恐ろしい言葉ですが、その言葉を発しさせた父の心境に私は子どもながら心を打たれました。逆に母は、この時は言葉尻に(言葉を真に受けて)反応したくせに、夫婦喧嘩の時は逆さまでした。言葉(父の主張や意見)には耳を傾けておらず、叱り方や叱られていることに反応し、ブリブリ膨れていました。子どもながらに、情けなく思ったことがしばしばです。

 それがよかったのだと思います。よくぶん殴る父でしたが、決してその行為を恨んでいません。逆に、母は常にそうした場合は、私を守ってくれましたが、甘えてはいません。

 この「いっそのこと死んでしまえ」事件があった時から、私は人を見る目を変えたのではないでしょうか。「優しそうな人」と「優しい人」を峻別するような生き方に踏み出した、と言ってよいように思います。

 もっとも、優しそうな人と優しい人も、5W1H的に考えられるようになってから、それぞれが幾つかに分類できることに気付かされています。

 そのようなわけで、たかがエンドウマメのことで始まったケンカなのに、あらぬ方向に行ったり来たりする大ゲンカになり、私の提案は宙ぶらりんで終わりました。それは多分に、今週始めの見つけた両親の古い写真が関わっています。私の思い出深い写真であり、子どもながらに憧れた両親の独身時代の姿でした。

 この母が、と母のことに想いを馳せ始めてしまい、それがこの度のケンカをうやむやな状態で収束させたようです。というのは、1945年の夏からこの母が一変しており、その慕情に浸ってしまったのです。いわゆる重い物は箸しか持ったことがなかったような母が、ガスも水道もない疎開先である父方の叔母の家に居候し、農業で一家を支える新生活を始めた時の変容です。

 心機一転、ここで生きて行くのだ、との決意が伝わってきました。何せ博識の伯母は、とても厳格で、生きる力に満ち溢れた人でした。野草での治療、漬物の上澄みを調味料に加工するなどあらゆるものを活かす工夫をするかと思えば、自宅の茶室で母と姉に 茶道を習わせる人でした。それだけに、母は子どもの私にもとても理解しやすい人に一転しました。

 それから1年後に敗戦を迎えます。その間に、戸板に載せられたような父が護送されてきています。母は一層窮地に立たされていました。医者が見放した結核病人の看護が加わったからです。16歳の姉はもとより、6歳になった私も気を引き締めたことを思い出します。

 結局、このたびのケンカでは、さしたる成果を得られませんでした。とはいえ、その目で見れば、妻は、キケマンの種(いずれミツバチの師匠への土産にします)などをキチンと収穫するなどしてくれていました。「あそこまで責め立てる必要はなかったか」と、反省です
 

 


不適な莢(交配している、あるいは実の入りが悪い)まで含めて、その何倍もが残っていた
 

両親の独身時代の姿

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