ヒトから人への脱皮

 

 このヒトから人への脱皮のキッカケをこれまでに幾度となく考えてきましたが、この歳になってもまだ答えが出ていません。直立歩行、道具の使用、あるいは言語の駆使などではなく、火の使用ではないかと見たり、農耕とか植樹ではないかと考えたりしたこともあります。

 直立歩行は腰に負担を、言語の使用はココロとカラダの分断を、火の使用は人間同士の大量殺戮を、農耕は大地の砂漠化を、あるいは植樹は生態系の破壊をなどと、いずれもカラダやココロに悪影響を及ぼしており、「どんなものか」と、と思案させられてきたわけです。ヒトから真の人への脱皮であろうか、と考え込まされてきたわけです。

 水や空気を汚し、資源を枯渇させ、人間同士の殺し合いを蔓延させながら、生きとし生けるものが乗りわせている地球を台無しにする生き方を続けていてもよいのでしょうか。

 先週はA・G・E(老化の原因物質)を話題にしましたが、調理もヒトから人への脱皮に供したのか、と考えさせられたわけです。またぞろ、1週間にわたる半断食を経験しますが、それはこれまでの食生活のあり方(野生動物には見られそうにないメタボや生活習慣病が多発)に疑問を持っているが故です。少なくとも昨今のグルメブームは「美味求心」から逸脱しています。

 このような意味で、野生動物としてのヒトから、真の人への脱皮配下にあるべきか、と考え射されているわけです。

 近年は、動物よりも「脳を持たない植物」の方が賢いのではないか、と考えるようになっています。この疑問を私は、心の中でこれまでに3段階にわたって育ててきたように思います。その3段階目は「細胞の意志」に触れたあるエッセイであり、先日のNHK-TV番組(iPS細胞の山中教授が登場)でした。思わず「ヒザを打つ」心境に私はされています。

 その第1段階は6歳から始まった「植物との付き合い」がキッカケです。ついに、学生時代にはクマとイチゴの知恵比べを気にし始めています。その後、ミドリムシの戦略を知るに至って、その想いは絶頂に達しました。単細胞のミドリムシは植物か動物か。この生きものは動きますから動物に見えますし、動物にしかない脂肪酸を持っています。しかし、植物にしかないアミノ酸を持っており、光合成もします。問題は、植物か動物か、よりも以上に、脳を持っていないのに鞭毛をモーターのごとくに回転をさせ、繁栄を目指して巧みに動きまわることです。

 第2段階は、源ちゃんの危惧をアタマの段階ではなくカラダで感受させられた1973年のことです。その時に第4時代を構想し、「三大決意」を思いつき、人間は生態系の一環に過ぎないことを思い知らされています。ヒトから人へと脱皮したはずの人間は、生きとし生けるものが乗り合わせている宇宙船地球号を沈めかねないことを、つまり緩慢なる皆殺し作戦を展開し続けていることがとても心配になり始めています。

 その後、人の脳に興味を持ち、その想いを1988年に著作を通して明らかにしています。当時は人間の脳に関する著作は稀有でしたが、私なりに調べて人間の「3つの脳」に触れています。つまり、他の動物と人との違いは「大きな脳」を持っているが故ではなく、3つ目の脳に大きな前頭葉を育てたが故にヒトになった、と考えたわけです。その後、わが国では脳ブームが生じており、この想いを追認させられている状態ですが、ヒトから人への脱皮という点では釈然としない心境にされているのが現実です。とりわけ大都会のありように疑問を抱かされています。

 江戸末期から明治の初期にかけて、近くは1920年代頃までに、わが国を訪れた欧米からのいわゆる知識人は、当時の日本人をとても讃えています。その讃えようは日本人を「人の模範」と見ていたのではないか、と思われるほどです。キットこれからの世の中は、この「人の模範」を求めるに違いありません。江戸時代の人たちは、日本という閉鎖空間の中で循環型の生き方をしていた、と見てよいでしょう。最小の消費で最大の豊かさや幸せを手に入れる生き方を体現していた、と言ってよいでしょう。その時代が生み出した生活用品が、今ではことごとく芸術品のように世界中の人から見られている、と言ってもよいでしょう。

 こうしたモデルのごとき生き方を、地球という閉鎖空間に適用したら、いかがでしょうか。日本がその推進役になれば、いかがでしょうか。311を体験した時の日本人の思いを振り返ると、難しい選択ではないと思います。

 これは安倍内閣が進めようとしているやり方とはまったく逆ですが、真剣に考えておくべきだと思います。安倍内閣のやり方は、緊張感を増すばかりです。やがては、ある種の断末魔を迎えるに違いありません。その時には「人の定義」が大問題になるのではないか、と思われてなりません。その「人」のありようを私はとても気にしています。

 なぜかこのところ、ヒトから人への脱皮のキッカケとして「花を愛で始めたこと」と見たくなっています。「花を愛でるココロ」と「創造するココロ」の合一こそが、ヒトから人になった真のキッカケではないか、と思われてならないのです。そのモデルとして私は江戸時代の人たちを見ています。どんなものでしょうか。それとも、ガンジーの意見、、つまりブレーキに従わなければいけないのでしょうか。
 

 

 

 


 

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