アイトワのホームページ
アイトワ循環図

そうだったのか 06/08/27

 炎天下の庭でノウゼンカズラに見とれながらハナオクラを摘んでいたら、なぜかトルストイを思い出しました。この文豪は、晩年は広大な庭に引きこもり、居留守を使ってまで庭仕事に没頭したと聞きますが、私にもその心境が理解できそうな気分になったのです。かねてから、なぜ私は庭仕事に没頭するのか、なぜ妻は人形創りに没頭するのか、と気になっていたのですが、過日(先月2日)そのわけが分かったような気分になって膝を打っています。これはその続きです。

 かつて、わが家では小型の耕運機や水耕栽培の設備一式を買い求めながら、使いこなせることが分かった時点で深刻な問題点に気付かされ、引き受けてくれる人に惜しげもなく差し上げるなどしています。そのときの心境も振り返りました。結論を急げば、私は「真の幸せや豊かさの源泉はアイデンティティとか自己実現にありそうだ」と考えているのですが、「生きる営みそのものが自己実現する営みであるかどうか」の問題ではないか、という気がしたのです。

 妻は主に少数民族をテーマにした人形を創りますが、私はその衣装や生き方を振り返りながら、人間にとってアイデンティティとか自己実現はそう難しい課題ではなく、ごく自然に実感したり到達したりし得るものではないか、と考えたのです。ところが、私たちは逆に、工業社会化の進展で複製品を大量に消費する「物質的な豊かさ」に幸せを見出してしまい、個別性や個性から遠ざけられる生き方に追いやられ、「精神的な貧しさ」に気付きにくくなるという矛盾を抱えてしまい、難しい課題のように感じているだけではないか、と考えたわけです。

 この矛盾があからさまにさせた犠牲の第一は近代の子どもでしょう。過去の日本は世界でも珍しい子どもの天国でしたが、今は逆に、過保護の下でのペット化か虐待の対象にされかねなくなっており、アイデンティティや自己実現とは縁遠い時空に閉じ込められているように感じます。

 ここに民族衣装姿の家族の写真があります。祖母を囲み、祖父や父の帰宅を待っているのでしょうか。それぞれ異なる衣服を身に付けていますが、その衣装から家族であるだけでなく、見る人が見たら氏族まで理解できそうです。次の写真はケルトの娘です。一見して全員が同じ民族だと分かりますが、よく見ると制服ではなく、2つと同じ装いがないことも分かります。こうした人たちは、土地柄に即した素材や染法などを自ら駆使し、民族としての約束事だけでなく、わが国の家紋のような血筋を示す意匠も大切にしながら、個々人がセンスや技術や技能なども駆使して創り上げ、各人固有の装いにしているのでしょう。いわば肌の延長のような装いはまさにアイデンティティの表彰であり、固有の自己を実現させた姿と見てよいのではないでしょうか。

 フランスで工業化が軌道にのり、万博も開催し、今の日本のような状況になったときに、ゴーギャンは都会の喧騒を避けてタヒチに移住しています。その過程で「我らはいずこから来たのか。我らは何者か。どこへ行くのか」との疑問を投げかけた絵を残しています。きっと彼は、大量生産された複製のモノやサービスや情報の海に漂い、飲めば飲むほど余計に渇を覚えそうな海でそれらの選り好みに明け暮れ、溺れそうになり、自己を見失いかけていたのではないでしょうか。

 遅ればせながら過日、私は棕櫚の葉を干し始めましたがそれを束ねた後、友にもらった生ソバを妻が湯がいている間に畑に走り、苗を植えてそう日がたたないネギを薬味に摘んだのですが、なぜか心と体が一体化するような気分になりました。「わたしは私なんだ」「私はここに居るんだ」との充実感です。世の中で唯一のモノ作りに勤しみ、口や肌を通して取り込んでいると、なんだか私にも自己実現が身近に感じられそうになったのです。だからでしょうか、その対極の世界に誘おうとする複製品に対する興味はさらに一段と醒めてしまったように感じます。

ハナオクラの最盛期です。わが家のオリジナルメニュー「ネバネバ四君子」だけでなく、酢の物や味噌汁の具に生かされたりします。
文豪トルストイの晩年の写真。トルストイはオリジナルの椅子にかけているのでしょう。アイトワは20年前の4月に誕生しましたが、その年の6月号のナショナル・ジオグラフィックに載っていました。
民族衣装で身を包んだ人たち。刺繍や継ぎの当て方などから根気のよさや几帳面さなどその人の性格まで読み取れそうな装いです。私が訪れた村々の例で言えば、こうした装いを愛用している間は、物質的には貧しくとも、清潔で掃除が行き届き、活気に満ちた生活を営んでいました。
ケルト族の踊る娘たち。どの1人を見ても装いから同じ仲間内だと分かります。自分が自分のために、あるいは顔の分かる人が、分かる人のために、1つの約束事に沿ってつくった銘銘の装いでしょう。2つと同じものはありません。そこには統一性や一貫性と同時に、個別性だけでなく個性まで見出せそうに思われます。
首長族とも呼ばれた人々が野良仕事の手を休めて撮影に応じたのでしょう。既製のセーターなども用い始めているようですが、まだ1つの約束事に沿いながら主体的に既製の複製品を生かしているように思われます。他の例で言えば、工業社会との接触が深まり、その主体性を見失うと、生活圏が散らかるようになっていました。
どこともかつての家屋には、統一性や一貫性が見出せますが、2つとして同じ建物などはなく、個別性だけでなく個性も見出せそうに思われます。こうした家並の街に入れば、どこに居ても、どの街に居るのかが自覚できます。日本はこうした街を潰しましたが、ドイツは日本以上に戦災国なのに、かつての街の復元を執拗なまでに試みています。

過日、腐り始めた棕櫚の葉と葉柄を切り分けて干し始めましたが、このたびその葉を風呂の焚口に入るサイズに束ねました。冬場の追い炊きにとても重宝する燃料です。もっとも、熱量で見てガス代に換算すれば100円にも満たないでしょうが、なぜか芯まで暖まる湯を沸かせそうに感じています。
 

inserted by FC2 system